「いつまでこんな生活が続くのか。人生とはずっとこんなものなのか――。退屈と絶望だけがありました」
「地下アイドル」という職業がある。 マスメディアへの露出よりも、ライブを中心に活動しているファンとの距離が近いアイドルの総称だ。そんな地下アイドルという独特なサブカルチャーを生み出した現在の若者たちの実相に迫った『職業としての地下アイドル』。著者であり、現役地下アイドルの姫乃たまさんが、自らの体験談を綴ります。
私は社会で生きていけない人間なのかもしれない
先日取材中に、「姫乃さんは地下アイドルになったことで居場所を見つけたって言う割に、生きづらそうですよね」と対談相手から言われて冷やっとしました。そのとおりだけど、理由を話す気になれなかったからです。
私にとって、中学時代は生きづらさの塊でした。誰ともかみ合わない会話や、集団行動への嫌悪感からは、自分の社会性のなさを突きつけられるようでした。
大人になっても私は社会で生きていけない人間なのかもしれない。
あの頃の恐怖は、大人になって居場所を見つけた今でもぬぐいきれません。私はいまだに手放しで安心することがなく、何年もその思いを文章にすらできずにいました――。
中学生のときは何もかもすべてがダメ、という感じでした。
入学してすぐ私は、同性の先輩たちから「生意気」と言われるようになりました。年齢が1つ違うだけで、こんなに人に対して強く当たっていいものかと思うほど罵倒されました。全校生徒合わせても120人くらいしかいないような小さい中学校で、私の印象は最初から最悪でした。
同級生とは、オタク気質の子としゃべることが多かったけれど、私はアニメにもボーイズラブにも興味がなかったので、肝心なところでわかり合うことができませんでした。私はヒップホップが好きで、ずっと「妄走族」というグループの『PROJECT妄』というアルバムをお守りのように聴いていました。いまでも聴いています。
私の上履きは当然のことのようにしょっちゅうなくなりました。3足目がなくなったときに、見かねた先生から「外履きで授業を受けていいぞ」と言われましたが、それはそれで悪目立ちして肩身は狭くなるばかりでした。いつまでこんな生活が続くのか。人生とはずっとこんなものなのか――。退屈と絶望だけがありました。
2年生に進級して何カ月か過ぎた頃、後頭部から首筋にかけて何かが垂れてきました。そういえば痛がゆいような気がして母に見てもらうと、後頭部が爛(ただ)れて膿が流れているようでした。皮膚科に行っても原因がわからず、膿は固まるとフケのようになって制服のブレザーに落ちてきます。
いつしか授業中に私が発言すると同級生の男の子が舌打ちして、教室の机にはマジックで「死ね」と書かれるようになりました。わざわざそんなことを書かれなくても、とっくに心は死んでいました。
飲み薬と塗り薬をいくつも処方されましたが、鼻の穴の中まで爛れて、呼吸ができないほど膿で塞がり始めました。なんだこんな青春……。孤独感が募ります。
ついには学校から勧められて、半ば強制的にスクールカウンセラーにかかることになりました。週に数日だけ放課後にカウンセリングを受けていましたが、カウンセラーの人を信頼していいのかわからず、あいまいな世間話などをして様子を見ているうちに、通うのをやめてしまいました。
もう誰のことも信用できませんでした。
きっと人生はずっと地獄のようなもので…
直接的ないじめの被害に遭うことよりもつらかったことは…(写真:平山 訓生)
直接的ないじめの被害に遭うことよりもつらかったことは、自分はいじめられるような人間なのか、もう誰も私を受け入れてくれないのか、いつか精神的な居場所は見つかるのか、その不安のほうがずっとつらかったように思います。
結局、思春期の反抗期も併発していた私は、休学や転校を許してくれない両親が理解できずに反発するようになって、学校にも自宅にも精神的な居場所を失ってしまいました。
学校は地獄。きっと人生はずっと地獄のようなもので、大人になってからも私は社会で生きていけない人間なのだろう。そう思っていました。
おかげで高校選びは慎重に行いました。同じ中学から誰も進学しておらず、同級生も受験しない高校を第一条件にして、制服のない大らかな校風の学校を選びました。
みんな映画や音楽に詳しくて、文化祭では先生たちがバンドを組んで演奏するような文化的で陽気な高校でした。外で働いたり遊んだりすることや、音楽を好きでいること、面白い大人たちと話すことのような、中学生のときには許されなかったり、まゆをひそめられたりしていたことがやっぱり楽しかったです。
高校生になった私は、会話や文化を貪り、アルバイトをすることによって再び居心地のよい場所に落ち着き始めました。
地下アイドルと初めて遭遇したのは、2009年2月7日。高校生になったばかりの頃です。私は15歳になっていました。
高校から大きな道を1つ挟んだところに、1棟が丸々落ち着いた雰囲気のクラブになっているビルがありました。そこで知り合った人たちから、「アイドルの誕生日イベントでDJをするからおいでよ」と誘ってもらったのです。会場は新宿の歌舞伎町で、ビルの地下2階にあるロフトプラスワンでした。
地下アイドルはまだ世間的にも全然知られていなくて、言葉にできないあいまいな存在でした。ほとんどの人が名称すら聞いたことがなかったはずで、蔑称の意味が色濃かったので、出演者の女の子たちも自称していなかったように思います(そもそも彼女たちが地下アイドルという単語を知っていたかどうかも不明)。
私は小学校のときにはやっていたモーニング娘。を思い出しながら会場に向かいました。しかし、そこで目にしたのは知っているアイドルとはまったく異なるものだったのです。まず、舞台と客席がとても近くて、手を伸ばしたら触れられる距離にアイドルがいます。お客さんも、そんなに多くありません。
それから、主役の女の子以外は、カラオケで定番のアニメソングや、はやりのアイドルソングを歌っていました。衣装もおそらく市販されている既製品で、歌や踊りも、モーニング娘。とは、なんと言ったらいいか、ちょっと違いました。何よりも、興奮のあまりいすを振り上げながら声援を送っているサラリーマン風の男性に衝撃を受けたものです。
もともとのアイドルのイメージとは違っていましたが、それでもアイドルの女の子がこちらを指さして手を振って笑いかけてくれたときには驚いてドキドキしました。
ライブが終わった後、今度は先の彼女が客席までやってきて話しかけてくれました。そのときにはもう自然と、「アイドルの人と話した」と感じていました。最初は普通のお姉さんに見えていた彼女が、舞台の上と下で出会った後、私の中で完全にアイドルになっていたのです。
地下アイドルとしてステージに
それから約3カ月後の2009年4月30日、16歳になった私は四谷Live inn Magicの舞台に、地下アイドルとして立っていました――。あの後その彼女から半ば冗談で誘われて、彼女の主催ライブに出演させてもらうことになったからです。
私は、その日だけ自分自身を「゚*☆姫乃☆*゚」と名付けました。特になんの思い入れもない、張りぼての芸名です。
その日、たった5分の持ち時間を与えられた私は、1曲だけアニメソングを歌いました。
そしてどういうわけか、その様子を見ていた関係者の人から、投票制のアイドルイベントに出演してみないかと誘われたのです。
もちろん私のパフォーマンスがよかったわけではありません。新人の地下アイドルには、新人の地下アイドルにしかない需要があるのです。
この日のことについて後に、歓声が忘れられなかったかとか、アイドルになって生まれ変わった感じがしたか、などと聞かれますが、そういった輝かしい感情はありませんでした。ただただ「最後だと思ってたのに、またライブに出るんだ」とだけぼんやりと思った記憶があります。
出演することになった賞金付きのライブは、最短でも半年は勝ち続けないと優勝できないシステムでした。しかし、初めての投票制ライブで私は2位に選ばれたのです。本当はいちばん人気のある子が2位の子に抜かされないように、浮いた票が人気のなさそうな子に集中するというからくりがあったのですが……。そんなこととは露知らず、最初で最後だと思っていたことも忘れ、次回は1位になれるかもと、新しいファンを求めて私はほかのライブにも出演するようになっていきました。
そして私はしばらく、投票制のライブで自分と同じような新人の地下アイドルたちと順位を競い合うことになりました。私は運よく最初から応援してくれるファンの人たちが現れて、それから半年間を勝ち上がり続けて、優勝することができました。
そうしてイベントから卒業する頃には、ファンの人も、出演依頼をしてくれる関係者も、かわいがってくれる地下アイドルのお姉さんたちもいて、いつしか、自分でライブを主催するようにもなっていました。
集団からは弾かれる人間だと思っていた
それまで私は、中学校での経験から、集団からは弾かれる人間だと思っていたので、どこか許されたような気持ちになったのを覚えています。高校生活と同じように、地下アイドルの世界にも自分の居場所を見つけたように感じていました。
それ以降、私はどんな出演依頼でも引き受けるようになりました。自分に仕事の依頼がくるなんて、うれしくて面白かったのです。
あっという間に、平日は高校に通いながら、月に20本程度のライブに出演するようになりました。また、高校を卒業したら、大学に進学するか就職するか、いずれにせよ地下アイドルを辞めるつもりでいたので、金銭感覚が狂わないようにアルバイトも続けていました。
自分の許容量を理解できていなかった(写真:平山 訓生)
地下アイドルの活動は、出演するイベントがどんどん増えて、オリジナル曲も作って、いつの間にかすっかり、引退のメドが立たなくなっていました。
しかし、そんな生活を2年ほど続けるとだんだん、どれだけ働いても、どれだけ頑張っても、頑張っている実感が湧かなくなってきました。
周りの地下アイドルの女の子たちがもっと頑張っているように見えて焦って、私生活でも金銭感覚が狂わないようにアルバイトも辞めずにいました。
そんな中、地下アイドルの仕事が増えて、夕方に働ける日が少なくなってきたので、深夜にアルバイトを始めてしまいました。日中は学校へ通い、放課後にライブをしてから朝までアルバイトをして。外が明るくなってから課題を終わらせて、また学校に行く日々が続きます。完全に働きすぎていたのに、私は自分の許容量を理解できていなかったのです。
地下アイドルでいる自分に覚えている違和感も、日増しに大きくなっていきました。
当時は意味もなく、アイドルは人気を取るためにうそをついて取り繕うのが仕事だと思い込んでいたので、ずっと割り切れない気持ちを抱えていたのです。そのため私は、地下アイドルの「 ゚*☆姫乃☆*゚」を取り繕い続けていました。
地下アイドルを演じ続けるのにも疲れた頃、私は、女の子の気を引くためにわざと、「あの子のほうがかわいい」と言ってみせるお客さんや、身もふたもなく「次のライブ予約が少ないの、切実」と懇願する地下アイドルや、ファンを下に見るような運営だとか、この世界の下品で傲慢な部分ばかりが目につくようになっていました。
そして私は学校を辞めるのはもちろん、ライブを減らすとか、アルバイトを辞めるとか、疲労への改善策を考える思考能力すら働かない状況に陥っていったのです。体調は悪くないのに、不意に目眩(めまい)と吐き気がして、立ち上がれなくなる日が増えていきました。
そんな生活が2年ほど続き、高校生活も残り少なくなったある朝、私は体調不良でもないのにベッドから起き上がれなくなりました。
助けを求めてやっとのことで電話をかけた担当の編集者から、「この間会ったとき、顔がチック症みたいにけいれんしていたから心療内科に行ったほうがいい」と言われ、自覚のなかった私はなんとか着替えて、学校の近くにある病院へと向かいました。
ほとんど呼吸もままならない状態で、診察を受けながらコートを脱いだら、着の身着のまま急いで羽織ってきたコートもスカートも、バッグも、すべて赤色だったことに気がつきました。
診察室で私は5秒でうつ病と診断されました(実際にはもっとあったはずですが、朦朧としていて覚えていません)。医師からは、「どうしてそんなに働くんですか」と聞かれました。この人は何を言っているんだろう。それとこれとなんの関係があるんだろう。
そういえば、それまで口紅なんてつけなかったのに、診察室の私は似合いもしない、やけに真っ赤な口紅を好んでつけるようになっていました。
いつの間にか私は18歳になっていました。
思考が鈍っている私を利用しようとする男性たち
しかし、うつ病だと診断されてから今度は、妙なことが増えました。世の中には思考が鈍っている年下の女性を好んだり、利用しようとする男性たちが存在していたのです。
特に私の調子が少しでもよくなると、「前のほうが隙(すき)があって好きだった」と言ってくる観客の人がいたのは衝撃でした。
あるときには、雑誌の撮影と言われて遠方まで出掛けたら、編集者も誰もいなくて、カメラマンと2人きりで旅館に誘われたこともありました。
うつが悪化すればするほど、周囲の男性たちの思惑は重くのしかかってきました。
仕事を断れないこともまた、明らかに私を苦しめていました。そして私は、この世界での活動から身を引くための準備に取り掛かったのです。
最後の日に開催したのは、ワンマンライブでした。動員は181人。業界全体で見ればちっぽけなことですが、18歳だった私の身の丈には合わないような、ライブハウスに入りきらないほどの人が足を運んでくれました。
しかし私は、この日に関する記憶がもうほとんどありません。よく覚えているのは、2時間ほど歌った後に、舞台の上で長かった髪をはさみで切ったことです。
翌日私は、自分で切ってしまった髪を美容師さんに切りそろえてもらった後(「これ、どうしたんですか?」「どこの美容室で切ったんですか?」「なんか事故ですか?」等々言われながら)、東京を離れて縁もゆかりもない土地へと向かいました。
日がな一日、本を読んで、好きなだけ眠り、好きなときに好きなものを食べて過ごしていたら、自然と感覚が戻ってきました。本が面白い。安心してぐっすり眠れる。食べ物がおいしい。透明な海がきれいでした。ヒトデがたくさんいて、気持ちのいい風が吹き抜けていて――。
お互いを認め合うことで成り立っている世界
私は中学時代に失った自分の居場所を高校時代に取り戻して、地下アイドルの世界にも新しい居場所を見つけた気がしていました。
私は、中学時代に自分の居場所を失った反動から、知らず知らずのうちに、地下アイドルの世界に居場所をつくれるのか知ろうとしていました。実際に地下アイドルの世界は、人から認められたい人たちが、お互いを認め合うことによって成り立っている世界でもあります。
私も初めて舞台に立ったその日に、十分に他者から承認されました。私の自覚していなかった承認欲求は、地下アイドル業界に身を置いたことで、無自覚なうちに満たされていたのです。
しかしそれは、「 ゚*☆姫乃☆*゚」というキャラクターが得た承認にすぎないと思っていました。そう考えていたせいで、歓声が忘れられないとか、地下アイドルになって生まれ変わったとか、そういうふうには思えなかったのです。
もちろん、地下アイドルとして認められるのはすばらしいことです。しかし、これは仮の承認にすぎないのだという思いがいつまでもぬぐいきれず、私自身が最も自分を認めることをできずにいました。その証拠に、舞台で歓声を浴びれば浴びるほど、ほかの女の子が褒めそやされているようで憤りを感じていたのです。
私はとっくに地下アイドルの世界でファンや関係者から認められていたのに、自分で自分のことを認められなかったせいで、どれだけ働いても、頑張っている実感がありませんでした。そのせいで自分が壊れるまで際限なく働き続けてしまったのです。
一度はそうやって地下アイドルの世界から身を引いた私ですが、今こうして文章を書いているように、この世界に戻ってきました。
学生時代に受けたいじめは、心の奥にいつまでも残る
私自身、学生時代にいじめに合っていました。
また、集団で暴行をされたこともあります。
私にとって、小学生、中学生、高校生は苦痛でしかありませんでした。
今にして思えば、姫乃さん同様に、心に取り返しのつかない傷を負っていたのかもしれません。
うつ病を発症したのは、大人になってからですが、学生時代の辛い経験がうつ病を発症しやすくしていたのは、間違いないと思います。
姫乃さんは、中学時代に受けたいじめの経験を糧にして、高校生は充実した生活を送る事が出来たようですが、結局は自分の居場所をいつまでも探し続けているのですね。
地下アイドルと言う立場も、本当の自分をさらけ出す事が出来ないジレンマに陥っていたのでしょうか?
これからずっと地獄が続くとは思っていないですが、若くして「うつ病」という本当にやっかいな病気になるまで追いつめてしまったは本当に辛かったでしょうね。
まずは、病気を早く治して、とにかく本当の自分を愛してくれる人に出会えることを願っています。
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