芥川賞作家にして慶応大の教壇に立つフランス文学者。時には金原亭馬生門下の二つ目として高座にも上がる荻野アンナさん(60)は多方面で活躍中だが、20年ほど前からうつ病の治療を続けている。発症のきっかけは、親の介護だった。
画家である母を祖母が支える姿を見て、私も40歳までには子どもを持ちたいと思っていたんです。
結婚は反対されましたがパートナーの男性がいて、不妊治療を受けようかと思い始めた頃、母が骨折し、父が悪性リンパ腫で手術を受けました。
父の治療が続いている最中に、パートナーが食道がんになり、最期をみとりました。ぎりぎり子どもを産める時期に介護と看病が重なり、うつ病の症状が出てきたんです。
▽怠け病と誤解
朝、目覚めているのに起き上がれなくなりました。「早くしないと」と思いながら、2時間かけてやっとベッドを出るような状態です。
それでも、単なる怠け病だと思っていました。「私は怠けている」と自分を責めるんです。当時はまだ「介護うつ」という言葉も知られていなくて、病院に行くという発想がありませんでした。
そのうち、歩いていると、わずかな段差で転ぶようになった。精神的な原因で身体的能力まで衰えるんですね。知り合いの医師に連絡を取ると、すぐに心療内科医を紹介してくれました。
▽ナイフ持ち病院へ
父は90歳を超えてから大量飲酒するようになり、朝からビールやワインを飲む。ついに倒れて入院しました。
救急で入った病院は10日以上置いてくれません。転院先のスタッフの助けで、長期入院ができるリハビリ専門病院に移りました。
ところが、米国人の父は英語で「元気なのに、なぜこんな所に入っているんだ」とわめくんです。
そのたびに病院から「娘さん、来てください」と携帯電話に連絡が入るようになりました。
ある日、大学の授業が終わると「すぐ来てください」といつもの電話です。
原稿の締め切りも重なっていたので、私の中で何かが崩れたのでしょう。
気がつくと、病院の近くのコンビニでカッターナイフと缶チューハイを買っていました。
病室で父を諭そうとしたら、また怒鳴りだしたので「もう嫌、こんな生活!」と叫んで床を転げ回りました。
父に飛び掛かろうとしたところで取り押さえられました。心中しようという気持ちがあったのかもしれません。
▽がんでハイに
5年前、自分の大腸がんが見つかりました。
父は亡くなっていましたが、母の自宅介護が続いていたので「これで休める」とハイな気分になったんです。
人の付き添いではなく、自分のことで病院に行ける。最大のぜいたくだと思いました。
人間の体は面白くて、手術後、抗がん剤治療が始まって体がダメージを受けるのに反比例して、うつ病がどんどん良くなっていきました。抗うつ剤も減って、翌年の秋ごろからはしばらく抗うつ剤がゼロになりました。
でも、いつの間にか前よりひどい状態になっていました。起きられないだけでなく言葉が出ない。授業の途中で絶句しちゃうんです。その後、徐々に抗うつ剤を増やして現在に至っています。
うつ病が一種のブレーキの役割をして、自分を助けていたんだと分かりました。もしあのままアクセルを踏み続けていたら、とっくにくたばっていたと思います。
研究室の壁に「79転び、80起き」という色紙を貼っています。何回でも転んで、何回でも起きればいい。自分をそう励ましています。
私は荻野アンナさんと言う作家を、この記事で初めて知りました。
しかし、うつ病に対する考え方は共感出来る事がたくさんありました。
まず、うつ病は体のブレーキの役割を果たしてくれるという事。
必要以上にブレーキをかけるので、かなり参ってしまいますが(笑)
それに、何回でも起き上がれば良い「79転び、80起き」と言う言葉。
これまで、何十回も転んだにも関わらず、それでも前向きな姿勢は頭が下がります。
うつ病と言うと、精神的に暗くなるイメージを多くの人は持っていますが、実際には個人差が大きいです。
私もそうですが、荻野アンナさんのように、身体的な症状が主で、精神的には結構前向きに物事をとらえる事が出来る人も多くいます。
「体が起き上がらない」「それでも怠け者」と考える。
今でこそ、うつ病は多くの人に認知されていますが、当時は本当に大変な思いをされたのでしょうね。
まだまだ人生はこれからです。
10年、20年回り道をしようが、何十回転ぼうが、ポジティブに人生を楽しみたい小野です。
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